UGCとVitaとCGM
今年3月に配信された「ゲーム天国」の新発表9本の動画の内、「良く判らん」という感じだった「イメージしてみて?」なプロジェクトの内容が(だいぶ前の話だけど)発表になった。
そして、今日から「応募受付スタート」らしいので記事にしてみる。
ゲーム天国の動画
まぁ、後出しジャンケンみたいな話でしかないが、実はたぶんそういうプロジェクトだろうな~という事は、ゲーム天国の動画を見てなんとなく想像はついていた。なので、このプロジェクトについて具体的な発表があった事であまり驚きはなかった。あ、やっぱりそうなのね?ぐらいの感じで。
でも。
それはそれとして、正直「なぜVitaなのか?」というところは非常に興味があったりする。
今までも規模の大小こそアレ、参加型のゲームコンテストみたいなものはいくらでもあったし、実際に製品化/サービス化されたものも決して少なくない。それこそいろんな会社で。
今回はその辺りのUGC的な話とVitaの環境的な要因をいくつか考えてみたい。
例の如く、あくまでも他人事的な形での私の妄想な話です。
UGCって何?CGMとちがうの?
ここ何年かの流行の言葉で全く意味が違うのに混同されやすい言葉としてこの2つがある。
それぞれ、「シージーエム」と「ユージーシー」と読む。あえて言う必要はないか。
困ったときのWikipediaで調べてみようとすると、ちょっと困ったことになる。
CGM : Consumer Generated Media
Consumer Generated Media(コンシューマー・ジェネレイテッド・メディア、略称:CGM)とは、インターネット用語の一つ。「消費者生成メディア」などと訳される。そこで生成されるコンテンツは、User Generated Content(UGC、ユーザー生成コンテント(-コンテンツ))と呼ばれる。
UGC : User Generated Content
⇒ Consumer Generated Mediaに転送
・・・混同されるワケだよね。っていうか、これじゃ意味わかんない。
つまり、この違いをしっかりと把握しておかないと、この先ゴチャゴチャのままになってしまうので、一旦ここで整理しておく。
CGM とは
CGMとは、インターネットなどを活用して消費者(Consumer)が、自分自身または繋がりのある他者により提供(Generated)される情報メディア(Media)。既存のメディア(新聞、雑誌、テレビなど)とは異なり、消費者側により発信され、発信された情報の受け取り先も(主として)消費者側であることが特徴。
一般的にはこの相互発信を行える仕組みとしてのデータベース、ウェブサイトなどの環境的なものを指す。具体的には口コミサイトや、SNS、各種コミュニティーサイトなど。
情報発信の場としてインターネットの活用例が多いが、メディアとしてはインターネットに限らないため、他の情報伝達手段による情報発信も含まれる。
UGC とは
UGCとは、消費者(User)が、自分自身または繋がりのある他者により生成(Generated)された情報コンテンツ(Content)。コンテンツとしては生成可能なものであれば、内容についての厳密な規定はない。文章としてのドキュメント、写真やイラスト、動画や音楽、各種情報や物品なども含まれる。また、それらに対する感想、レビューなどのコメントもコンテンツとして定義される。
消費者により生成され、生成されたコンテンツの受け取り先も(主として)消費者側であることが特徴。
一般的には、このコンテンツの発信と共有を目的とした情報サイトとしてSNSや、各種コミュニティーサイトなどが利用され、それらを総称する形でCGMと呼ばれている。
という感じだろうか。
もっと大雑把にまとめると、
ま、紛らわしいことこの上ない。
なお、最近の傾向としては「場はどこでもいい。大事なのは物」という意味合いからか、「UGC」が使われているということが多いらしい。(ただし、サービスとしては場は大事なのでCGMという言葉も使われる)
UGCの境界線
UGCの言葉の定義は前段の通りである。
では、どこからどこまでがUGCなのか?というと、厳密な定義はない。
だが、あえて言ってしまえば「とりあえず全部」ぐらいの感じだったりする。
たとえば。俳句や小説、絵画や自主制作の映画、映像作品などはインターネットが普及するはるか昔から公募というものは結構あったし、別に珍しいものではなかった。手近な所では、小学生の防災ポスターや交通安全の作文なども、自分自身の、または家族の経験として参加した記憶は誰にでもあることだろう。今でも毎年行われているし。
それも「UGC」だ。
たとえば。町内会の回覧板に「中学生までの家庭教師やります」とか「引越します。家具引き取り先求む」なんて連絡の紙が入っていたり、学校や近所の病院などでも同じような掲示物が貼ってあったりしたら。
それも「UGC」だ。コンテンツだ。
もっと極端に言えば、駅の「○○先行くね」とか「○○の定期券拾いました」とか書き残す掲示板の書き込みや、神社の境内に吊るす絵馬なんかも一種のUGCと呼べるものだ。(まぁ、絵馬を神様以外が除き見ること自体はモラルの話だけど)
いや、もちろん。絵馬の絵(というか絵馬そのもの)は生産者がいて販売しているものである以上、これらはUGCとは呼ばない。当然、お御籤も生産者がいる販売物であるので、UGCとは呼ばれない。
しかし、絵馬の裏に文字を書いて(書かなくても)消費者が吊るした時点でそれは「UGC」になる。書いてある内容そのものもコンテンツだが、複数の消費者による合同制作物と考えれば、境内で絵馬を吊るしている景観そのものもコンテンツと呼ぶことが出来るのだ。この雰囲気、絵になるよね?と思う人がいれば、それは既にコンテンツだ。(一般的にはそれをカメラなどで撮影した写真をコンテンツと呼ぶことが多いが、景観自体も立派なコンテンツと言えると考えている)
だから、お御籤も特に消費者が何かを書くということはないものの、境内で結ぶ事で景観は変わるし、それによってUGCが生成されたといえる。同様に七夕の願い事となる短冊はもちろん、クリスマスの飾りつけも、一種のUGCと呼ぶことも出来る。*1
そういう意味で、UGCって境界線がとてもあいまいで、誰にでも出来るし、誰でも既にしていること・・・だったりする。決して特別なものではないということが、まず大事なことだ。
Vitaが一つのCGM (まとめ)
今回のプロジェクト。応募要項などを見ると、Vitaを使って応募する訳でもない。
そういう意味で、Vitaである必要性は無い様に思える。
ここで「Vitaはネットワークに特化したゲーム機で、応募とかもVitaで出来るから!」とか力説できれば、それはそれでカッコイイ感じもするんだけど、そんなことは無い。内容を確認する限りではプロジェクト自体はVitaを持ってなくても参加できるだろうし、Vitaに専用のアプリをインストールするとか言う話でもない。
無論、Vitaを統合開発環境のインターフェースという形にし、文章も書けるし、イラストも描けるし、音楽も作れるし、音声の録音も出来るし、テキストチャットや音声チャットもグループとかパーティーとかを使えばできるし、それらをコンテンツ、自分の作業パートの成果物としてサーバにアップロードできるよ!みたいな環境を作ることもできるんだろうけど、正直それをするぐらいならパソコンの方がいろいろ便利だろうから、そういうことを考えている訳ではないと思う。
「ならなんでVitaなの?パソコンでもスマホでもいいんじゃない?」
というと、たぶんそれはその通りだと思うし、それでダメな理由は殆どないが、個人的にはこのプロジェクトの環境的にVitaであることにこだわったであろうと感じたところが1つある。
それは、プロジェクトの説明ページ内の最後の方にあるこの記述。
制作された作品はPlayStation Storeで配信されます。
これ。これが、このプロジェクト、UGCとしての集大成として成り立つための必須条件とも言えることだと感じたのだ。
具体的に言えば、プロジェクトが始まり、各参加者にパイロット版とかを配布する時にも、PSStoreを使うことが出来るだろう。アカウントで配信登録をすれば、各自が自分の手元の環境で検証を行うことが出来る。そこに環境的な違いは無いし、共同作業を行う上での共通理解が生まれやすいだろうし、最終的な制作物は同じくPSStoreで配信されるという。
UGCって、「一人の人が作るコンテンツ」とか「一人ひとりのコンテンツ」という認識は未だ強いものの、コンテンツとコンテンツを組み合わせて新たなコンテンツを生み出す事が出来るのが大事なポイントである。その時に、環境が違っていたり、配信が難しかったりしれば、共同開発する上での障壁になってしまう。
また、みんなで作るといっても、制作チームを最初から組める人はともかく、メンバーを集められずに諦めている人も多いだろう。音楽が好きでバンドを組みたいと思って「バンドメンバー募集」の掲示板をどこか貼っても、ご近所さんで息の合うメンバーが集まるかどうかは運次第だし、時間もかかる。
そういう距離的なものや時間的なものを吹っ飛ばす存在が「ネットワーク」で、ネットワークにつながっている情報端末、機器は沢山ある。今は、ネットワークを中心にコミュニティーは広がっている。
だが、その情報端末についても問題がある。性能面まで含めて「統一環境」と言えるほどに普及しているものは2つしかないからだ。
それは「スマホ」と「ゲーム機」。この2つだけ。
いや、毎年新製品が登場している状況では、スマホですらそれも怪しいし、実際機種やバージョンの違いによる互換性の問題も浮き彫りになってきている。
だが、ゲーム機は違う。数年単位で同じ製品が発売され続けるのが普通だし、環境面での違いも基本的に存在しない。
UGCで人と人はつながっていく。そのつながっていくための一つの「場」として「Vita」が存在しているといえるのではないだろうか。統一された一つの環境として。
強引だけど、そういう解釈もあるのかも知れない。そんなことを考えてみた。